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決意のおさんぽ

自分の人生を切り開ける自分になりたい

 今日は自分のやる事を心に決めるために散歩に出かけた。

 

『できるだけ稼ぎをギリギリにして、できるだけ働かない』それが、今日やると決めた事。

 

以前お世話になった恩人の方から頂いたアドバイスです。

この時の私は毎日朝から晩まで仕事のことばかり考えていました。休日を作らずに毎日働き、たまたま仕事がない日ができたとしても仕事のことを一日中考えていました。

 

仕事が好きだったのではありません。そこまで働かなくちゃいけない切羽詰まった理由もなかった。

なのに、それが幸せを手に入れる近道だと思っていた。無意識に、それを信じていて、

 

だけど、毎日長時間働く私は幸せではなかった。今は辛抱の時で、我慢すれば後で幸せになるはず、と思って頑張っていた。

 

そんな私に恩人が問いかけた言葉

「自分らしい人生を生きていますか?」

 

返事ができなかったけれど、心の中では「いいえ」と答えていた。

 

幸せになるために頑張っているのに幸せになれていないことを不自然に思わないのは、間違った認識をしていたから。

誰かが勧める『金持ち=幸せ』を正しいと信じていたから。

 

それは違うよと教えてくださったのが私の恩人。

 

今日は散歩をしながら、その言葉を思い返して、当時の自分も振り返りながら

今できていないそのアドバイスをもう一度かたく決意してやろうと思いながら散歩をしました。

 

左手の拳をギュッと強く握り、

右手でそれを包み、

 

その思いがここにあることを感じて、

どこかに行ってしまわないように、

強く、

強く、

握りしめて歩きました。

頂き物の言葉を超えて

 私が恩人から頂いた言葉は私への贈り物です。それを頼りに2年前の自分は歩みました。今もその言葉を頼りにしています。

ただ、私の元にはもう師からの言葉は届きません。これからの人生を自らの力で切り開いていかなければなりません。

 

努力しきっていない。100%自分の人生の為に努力をしたと言いきれていない。そんな状態で「私には自分の人生をこれ以上楽しくする能力は無い」と言うのは間違っている。

 

努力して、努力して、努力してやれること全部やって、それでも自分が求める人生を得られないのは才能や能力によるものだと思う。

そこまで努力していない私は、努力できないことが自分の人生を切り開いていけない原因なのだと思う。

 

今年亡くなったおばあちゃんの仏壇の前でそんな思いを話していたら、

自分の人生を自らの意思で切り開いていこうとしないこと、今を変えたいと思っているのに何も行動しないことは自分自身と自分の人生と自分の命に対して申し訳なさや不誠実さを感じました。

 

生きていない

 

一度きりの人生を、生きたいように生きていない。

やりたいことが叶うかどうかではなく、人生で叶えたい夢ややりたいことに挑戦していないことが

自分に対して諦めている、信じていない、

もしかしたら世界や周りにいる助けてくれるかもしれない人に対しても諦めているのかもしれない。

 

最終的には自分の人生を自分で楽しくしていける自分になりたいと、そう思った。